アジア映画の名作たち

アジア映画の名作たち -- 1
 
青木 透
Aoki Tohru
 
(文中敬称略)
 
1.はじめに
 

言葉は概念化されることで、ある種の限定された意味を帯びる。だからといって、あいまいさがなくなるわけではない。“アジア”も“名作”も、よく使われる言葉である。そうして、安易に使われる言葉でもある。こうしたことを踏まえたうえで、これらの言葉の、ぼくなりの使い方を、明示しておきたい。さらに言えば、言葉は言葉にすぎないということも踏まえつつ。

アジア、あるいは、アジア的というとき、それはキリスト教的、欧米的ではないことどもを指す。だからといって、必ずしもそれらと対立しているものではない。この言葉に、人はさまざまなイメージを、それぞれ固有にもつことだろう。地理的なイメージで言えば、“アジア”とは、東は日本から西はトルコやパレスチナまで、北は旧ソ連の中央アジアやサハリン、シベリアから南はインドネシア諸島やオーストラリアのアボリジニまでも含む。さらには欧米などのアジア系の人びとをも含む(なお、フィリピンの主な宗教はキリスト教ということになっているが、これも含む)。ぼくにとってのアジアとは、この世界そのもののことである。限定と無限定の間を行き来することになるのかもしれない。

もうひとつ、名作とは、映画の作品としてのその質の高さがあるレベル以上であることをいう。淀川長治の言っていた、作品が表出する風格とか品格のことである。ぼくの言い方では、品位、良心、抑制のある作品ということになるであろう。映画の作品としての風格ということについては以前、香港からハリウッドへ渡り成功している映画監督ジョン・ウーと話したことがある。ジョン・ウーはそのとき、「高倉健がスクリーンから表出するその風格」という表現をしていた。彼自身が風格のある映画を作りたいと。

ここでは、以上のようなことを踏まえつつ、アジア映画の名作たちを紹介してゆきたい。作品の選択は、ぼくの個人的な視野に限定されている。また、現在DVDやビデオで出ているもの、かつてLDやビデオで出されたものを優先しつつも、テレビのCS放送や衛星放送で見られる可能性のあるもの、各地で開催されている映画祭での上映作品も含むものとする。

 
2.サタジット・レイ『大地のうた』
 

『大地のうた』は、のちに巨匠と呼ばれるようになるインド、カルカッタの映画監督サタジット・レイの処女作である。彼は、この「大地のうた」に続いて、『大河のうた』『大樹のうた』を撮り、これらは“オプー三部作”と呼ばれている。『大地のうた』にはじまるこの三部作で、オプーの誕生から、その成長を通して、サタジット・レイはイギリス植民地時代の、インド、ベンガル地方の風土を、見事に描き出している。インド、のベンガルの、その土地がかもし出す土の匂いまでもがするような映画、それが『大地のうた』であり、ガンジス河のその澱みまでもが表出されている映画、それが『大河のうた』である。

ジャン=ポール・サルトルは、「存在と無」について哲学したが、これら三部作には全てが有り、何も無い。存在それ自体が、イコールで無のような、インド的世界がある。そうしたことどもが、静的なモノロクの映像で、オプーの生活とともに描き出されてゆく。生と死があり、貧困と悲惨が見つめられ、そうしてなお、人の生き抜いてゆく姿がある。ここで“死”は非日常ではなく、日常的世界のひとコマである。生けとし生けるものはすべて、死へと向かって生きているのだ、というように。そして、死は、人間をモノそれ自体へと還すとでもいうように。何年か前に、ベナレスへ行ったことがある。ガンジス河の岸の、人びとが沐浴している、そのすぐ近くにあるガートでは、死者が焼かれていた。その死者たちは、焼かれたあと、河へと還される。ベナレスには、死を直前に迎えた人たちがやってきて、自らの死を“待つ”。そんな姿も見られる。そこで人間の肉体の死は、モノそのものに還ることなのだと、強烈に感じたことがある。そのようなインド的世界が、遺憾無く表出されている。静かに、力強いタッチで、描き出されているのだ。

欲望は、見ることによって刺激される。想像力もまた、そうであろう。「一ヶ所にしがみついていると、世間が狭くなる。心の狭い人間になる」と語られる「大地のうた」で、オプーは両親とともに、生まれ育った村を離れることになる。その、牛車に揺られながら村を去ってゆく、オプーたち家族の姿は、痛切であるとともに、何か東洋的な悟りの姿でもあるように感じられる。リアリズムが、縁(えにし)を紡ぎ出してゆくかのように感じられる。これら三部作には、無常のなかにも、おだやかで、ぬくもりのある血が、流れている。それがゆたかな風格となっている映画たちなのである。かなしみが漂いつつも、寛容のある大きな映画なのだ。オプーの生活が点描される、そのひとつひとつが、その寛容にまもられるかのように美しい。それは、アジア的寛容とでも言えそうなものであり、そこにこの映画たちの豊かさが増幅されている。

これらの三部作を通して見られるのは、インドにおける“近代化”の問題であり、“家”という制度の問題であり、階級制度(ヒンドゥー教のカースト制)である。オプーの背景にはさまざまに考えさせられる問題がある。だが、それにも増してオプーの生は力強い。

サタジット・レイは、他にもたくさんの名作たちを生み出している。『音楽ホール』、『大都会』、『チャルラータ』、『遠い雷鳴』、『チェスをする人』、『家と世界』などがそれである。いま、こんな時代だからこそ、もう一度、サタジット・レイの映画たちを見なおしてみたい、そうおもうのは、ぼくだけだろうか。彼の映画には、たくさんの考えるヒントがある。どこかでまとめて、回顧上映をしてほしいとおもうのである。

 
☆参考として
 

・オプー三部作『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』は、淀川長治・監修の「世界クラシック名画100撰集」として、DVDで出されていた。

・『大地のうた』原作、ビブティブション・ボンドパッダエ著/林良久・訳『大地のうた』(新宿書房)がある。

・オプーの生活の背景となるイギリス植民地時代の一端を描いたものに、イギリス人であるE・M・フォースター(瀬尾裕・訳)の『インドへの道』(ちくま文庫)がある。

・サタジット・レイがこの三部作を製作していた1950年代半ばから後半にかけて、インドを体験した作家・堀田善衛の『インドで考えたこと』は、日本人として、示唆に富む好著だとおもう。

・オプー三部作で描かれた貧困は、絶対的貧困ではなく、相対的貧困だと考えられるが、絶対の不条理、絶対の貧困というものもある。インドのカースト制度の絶対的側面をとらえているとおもわれるものに、山際素男著『不可触民-もうひとつのインド』(知恵の森文庫/光文社)がある。

・やはりサタジット・レイが映画化した傑作『家と世界』の原作に、ラビンドラナート・タゴール著(大西正幸・訳)『家と世界(上・下巻)』(レグルス文庫/第三文明社)がある。これは、インドの民族運動のなかで揺れ動く三人の男女の心の葛藤を描きつつ、女性の自立の問題を描き出している。

 
☆関連で
 

もし興味のある人は、以下にぼくのコラムが掲載されています。

・ひとつは、にいがた国際映画祭(http://niigata.cool.ne.jp/film/)のホーム・ページで、『映画の旅人』と題して、アジアのさまざまな国や地域の映画についてのコラムを書いています。

・もうひとつ、これは北京出身の京劇役者である張春祥が発行するメール・マガジンで、こちらには『中国系映画人の横顔』と題して、ぼくが出会い、親しくしてもらっている中国系の映画人たちについての素顔やエピソードを紹介しています。なお、こちらは以下のホーム・ページにアクセスして、メール・マガジン(無料)を申し込む必要があります。
  張春祥・新潮劇院 http://shincyo.com/


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