アジア映画の名作たち

アジア映画の名作たち -- 4
 
青木 透
Aoki Tohru
 
(文中敬称略)
 
5.絵画、あるいは、写真
 

最近、しきりに、その人間の“品性”ということをおもう。もちろん、自身を除外してということではなく、自分をも含めてのことである。その人間の“品性”は、その人間の生き方と思想の有り様とに、深く関係していることだろう。特に、何ものか、何ごとかを表現しようとする者にとって、その“品性”の有り様は、否応もなく彼の作品に表出されることだろう。社会的地位がどうか、お金持ちかどうかなどという表面的なことに、この“品性”という奴は関係なく立ち表れる。ふとした瞬間に、その人間の日常性の在処を暴露するかのように。

そうした場面に立ち合うというようなことが続くと、自らを省みずにはおれなくなる。物質的には豊かで、安全なはずのこの国にいて、何をそんなにギスギスとしなければならないのか。心の方の貧しさに、おもいは至る。この国に、生まれ、育ったということだけで、世界のどこにいるよりも守られてあるということに、気付かない人たちが多いのだろうか。

品性は、品格であり、気品でもある。ここまで取り上げてきた3人の映画監督たち--サタジット・レイ、イム・グォンテク、キン・フー--の、それぞれの人物と作品には、それが証明されてあるようにおもう。

たまたま見に行った展覧会に、ミロ展と、セバスチャン・サルガド写真展がある。どちらも、小学生である娘に、“ホンマモン”を見せておきたかったから。たとえば、モーニング娘。のような音楽は、放っておいても、好んで聴くだろう。プレイステーションは欲しがるかもしれない。だが、それを否定するのではなく、それはそれでいいのだとおもう。ただ、先に生まれて来た人間として、可能な限り、良い作品にふれさせてあげたい、とおもうのである。それをどう受け止めるかは、彼女の感覚であろうし、彼女の将来に、何らかのプラスの要素があるならば、それでいいのだから。この世界の間口を、出来る限り、拡く、深く、見て、判断力と考える力を身につけてくれればいいとおもう。

世田谷美術館で見たミロの絵画たちからは、映画の原点のようなものが、ここにある、とおもわれた。それは構図の確かさによる安定感、手応えのようなものと言えば良いかとおもう。ミロの絵画のひとつひとつには、ある種の気品のようなものが漂い出ている。そしてそれは、構図の圧倒的な確かさによるものだとおもえるのである。イマドキの映画たちの多くは、画面構成がデタラメで、テクニックに頼りすぎているきらいがある。何が描きたいのか、だから明確ではない。表現者の側に、ほんとうに描きたいことがあるのだろうか、とおもってしまうのだ。それと比較するのは、ミロが可哀相な気もするが、ミロの絵画たちは、どれもが明解である。

かつて、映画以前に写真があり、写真以前に絵画のあったことを、再考することは、たいせつなことのようにおもうのだ。

セバスチャン・サルガドの写真展を見に行ったのには、もうひとつ、理由がある。それは、ぼく自身が何かを表現してゆこうとするならば、この一見豊かで、守られてある国にいるひとりとして、絶対の貧困に拮抗するような、何事かの思想を獲得してゆかなければならないのではないか、ということをおもい続けているからである。「難民・亡命・移民~国境を越えて EXODUS」と、この写真展の副題にもあるように、これは流浪を強いられた人びとをとらえた写真展である。

ここでも、ひとつひとつの写真の構図は、圧倒的な手応えと確かさを感じさせてくれる。写真たちは、光を活かすことで、陰影を深く、深く、表出しているのである。ひとつひとつの写真の背後にあるであろう悲惨よりも、生き続けることの何ごとかを、これらの写真はとらえていて、強く、熱い何ものかを感じずにはいられないのだ。本来、物質的、経済的には貧困であるはずの人びとの表情が、生命力豊かに増幅しているのである。東京にいて、疲れた人びとの顔を見ているぼくにとっては、新鮮でさえある。東京は、いかに貧相な容貌の人たちであふれていることか。生きるとは何か?どういうことなのか?もう一度、その根っこのところから考えなければいけないようにおもわれる--自分の顔を、鏡で見ながら。

写真を見ながら、サルガドとは一体、どのような人物なのだろうか、とおもわずにいられなくなっている。チャンスがあれば、ぜひ、会ってみたい人物である。

彼は、“近代”というものを、勘違いしないでとらえている数少ないひとりだろうとおもえる。それは、写真展の最後に展示された子どもたちのポートレートの、その子どもたちに共通する眼(まなこ)から発散される力、エネルギーのようなものに、集約されているだろう。

ラテン・アメリカをとらえたこの写真展の中盤に、こんな解説があった--白人が道路や住宅や農場を作り、病気と貧困と死をもたらした--と。これは、ある先住民の指導者の言葉であるらしい。近代とは、あるいは、現代とは、この言葉に収斂されてしまうのではないかと、考えるのだ。合理的で便利だとおもわれているこの社会のなかで、たいせつな何かを、多く失ってしまってはいないか。そう考えずにはいられないのだ。

サルガドの写真たちにも、その構図の確かな手応えと、思想の視座の在処とおもわれるものから、豊かな風格が表出している。これは、その人物の生き方から醸し出されていることどものように、おもわれる。アメリカも、キリスト教的な社会や価値観も、世界の一部にすぎない、ということを知るべきだ。

北野武監督にインタビューしたときの、彼の言葉をおもい出す--スチール写真が数枚あるとする。それをある構成で並べたとき、そこにドラマが表出される。それが映画なんだ--と。サルガドの写真は、たった一枚のなかに、すでにドラマが表出されている。映画でも、そのひとつひとつの画面に構成力が必要である。構図の確かな一葉の風景は、キン・フーの映画のように、意味を帯びる。

 
☆参考として
 

・アマルティア・セン著『貧困の克服』(集英社新書)。

・『セバスチャン・サルガド写真展「EXODUS 国境を越えて」』図録(朝日新聞社)


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