アジア映画の名作たち

アジア映画の名作たち -- 5
 
青木 透
Aoki Tohru
 
(文中敬称略)
 
6.アッバス・キアロスタミ(1)
 

9.11同時多発テロ事件以来、イスラム原理主義ということどもが、過剰に問われすぎてはいないか?2002年のニューヨーク映画祭では、イランの映画監督アッバス・キアロスタミが、招待されながら、アメリカという国家から、入国を拒否された、というニュースが伝わってきた。“アメリカ”とは、一体、何なのか?これに関連して、同じくニューヨーク映画祭に招かれていたフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキは、アメリカへの抗議の意味を込めて、映画祭をボイコットしたという。

何年か以前、ぼくが映画監督たちへのインタビューを繰り返していた時期、少なくともこの日本では、“イスラム”は遠い世界、という認識が一般にはもたれている、という印象であった。この一般的な認識は、いまもそんなに変化していないだろう。では、この認識は、どこから来ているのだろうか。地理的な距離の遠さもあるかもしれない。イスラム教という宗教への距離感のようなものも、その原因なのかもしれない。

しかし、もし、<他者>というものが、総じてわからない存在なのだとするならば、いま自分の隣に住んでいる人のことだって、よくはわからないのだ。イスラム教、あるいは、イスラム的な世界の人びとだけを、わからないわけではない。人は何十年生きたところで、わからないこと、知らないこと、の方が多いだろう。わからないこと、知らないことが、そのまま猜疑心や恐怖感につながるのだとしたら、この世界は、まことに恐ろしい、ということになってしまいはしないか。<他者>のわからなさは、もっと言えば、自分の恋人や家族に対する“わからなさ”にも通じるだろう。そこでは、“わかろう”とする心の有り様が必要となるようにおもわれる。このとき、<他者>への配慮や想像力が、試される。

たとえば、アッバス・キアロスタミに『トラベラー』という作品がある。この映画では、サッカーに夢中な少年が、主人公である。少年はサッカーに熱狂していて、どうしてもテヘランへサッカーの試合を見に行きたい、とおもう。そうして、実際にそのおもいを成就しようと、行動する。

キアロスタミのカメラは、この少年のおもいと行動を追い、とらえようとする。そして、ここにあるのは、ささやかな日常の、ある熱を帯びた少年の姿である。このようなサッカー少年は、この日本でも、あるいは、アメリカでも、世界中のどこにでも見られるだろう。それがサッカーではなく、野球や他の何かであってもいいのだ。ただ、その“熱狂”を行動に移すことで、『トラベラー』では実際にテヘランへサッカーの試合を見に行こうとすることで、日常性からの、ほんの小さな逸脱が起こってしまう。その逸脱は、この少年にとっての“冒険”にあたるのかもしれない。

ここでたいせつなのは、この少年のおもいと行動は、世界のどこにでも見られる少年のひとつの姿であろう、ということである。イスラム教やイスラム的社会を、たとえ知らないとしても、この少年の気持ちには、おもい至ることは、可能だ。少年に寄り添い、ドキドキしながら、われわれも少年の姿を追ってゆく。この、ドキドキしたり、ハラハラしたりするわれわれの心理の動きのなかに、少年との何らかの共通項を見出すことは、可能だとおもえる。ここに、見知らぬ<他者>に対する、配慮や想像力が生起してくる場所があるだろう。

『友だちのうちはどこ?』では、友だちのノートを間違って、持ち帰った少年が主人公である。先生は教室で、宿題はノートに書いてくることになっているはずだ、という。そのことを伏線にして、少年は友だちにノートを返さなければ、その友だちが宿題を出来ないとおもい、行動を起こす。ここでも、カメラは、友だちの家を捜す少年の姿を追う。少年の気持ちの動きは、この映画を見るわれわれにも伝わってきて、見ているわれわれも、やはりハラハラ、ドキドキすることになる。

こうした少年の姿を通して、その少年の日常性にまつわるあれこれが浮かび上がってくる。それは、少年と母親(家族)との関係だったりする。ささやかな日常の、ちょっとした変化が波紋となり、逆に日常性そのものをクッキリと表出する。大人たちに対する、この少年のおもいも、わかるようにおもえる。

誰にでも起こりそうで、どこにでもありそうなことが、キアロスタミという映画監督によって、見事に切りとられ、表出される。そうして、そこには人びとの生活のなかに起こるであろう、ささやかなひとコマがある。配慮や想像力は、この共通項と見える磁場のようなところを起点として、相互的に理解しようとしたとき、豊かに増幅するのではないか、とおもわれる。

イスラム的な社会の何事かを知ろうとしたとき、学ぶべき素材はいくらでもあるだろうとおもう。<他者>なるものを知りたい、とおもったとき、その<他者>に対するおもいやりや、愛情が働くのではないか。そして、そのことがたいせつなのだと、おもえるのだ。誰にでも、それぞれの日常がある。あるカテゴライズされたくくりのなかに、ひとまとめにしてしまう危険や愚かさは、何気ない人びとの日常を見つめることで、見出されることだろう。『トラベラー』の少年と、『友だちのうちはどこ?』の少年は、同じ社会に住む少年でありながら、全く違う個性をもった少年でもあるのだから。スウィフトであっただろうか--現象の背後にあるものを深く見よ--と書いていたのは。そうして再び、アメリカとは、一体、何なのか?

 
☆注

なお、キアロスタミ監督作品については次回もここで書く予定ですが、イランの映画に興味のある方は、以下のホームページに、このあと、「イラン映画の現在」を書く予定にしていますので、そちらもご覧いただければ、とおもいます。

・にいがた国際映画祭ホームページ
 http://niigata.cool.ne.jp/film

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