アジア映画の名作たち

アジア映画の名作たち -- 6
 
青木 透
Aoki Tohru
 
(文中敬称略)
 
7.アッバス・キアロスタミ(2)
 

日常のなかにいつでも起こり得る“違和”としての出来事がある。その“違和”は、事件や事故であるかもしれないし、災害のようなものであるかもしれない。さらには、もっと身近で、ささやかな何かかもしれない。キアロスタミの映画『ホームワーク』では、その“違和”は、映画の題名の通り「宿題」である。この「宿題」を通して、もっと言うなら、「宿題」をめぐる問いを通して、日常が描かれる。それが『ホームワーク』である。

なぜ、宿題を忘れたのか? 宿題は、なぜ出されるのか? こうした問いは、『友だちのうちはどこ?』における、「宿題はノートに書いてくることになっているはず」だと、先生から言われる生徒、という構図/状況の延長線上にあるだろう。また、子どもを持つ親としてのキアロスタミ自身から発せられたものであるのかもしれない。「宿題」は必要か? 親の側に、子どもの宿題を見てやれるような余裕はあるのか、ないのか。こうしたlことを通して、イランの社会が描かれ、親たちを取り囲んでいる状況が映し出される。

何気ない日常に、“違和”をもち込むことで、静かな水面の池に、石を投げ込んだような波紋が起こる。この波紋のなかに、それでも人びとが生き続けてゆく姿が表出される。そこには、せつなさや痛みが伴うこともあるだろう。

1990年、イランでは大きな地震が起こった。サッカーのワールド・カップが開催されている最中のことであった。『そして人生はつづく』は、この地震の数日後、という設定になっている。ここでは、ひとりの男が、息子を同行して、地震の被災地へ行こうとする。その道中が描き出される。この男は、キアロスタミ自身なのかもしれない。なぜなら、目指す被災地は、コケルという村落であり、『友だちのうちはどこ?』に出演していた少年アハマドプールの安否を、男は気遣っているから。

男は、息子を乗せて、クルマで目的地へと向かう。その車窓を通して、さまざまな風景がとらえられる。地震によって壊された村落を通過する。森には、ハンモックのなかで泣いている赤ちゃんがいて、その母親らしき女性がいる。ラジオのニュースでは、被災した人たちのことが伝えられる。崩落した岩、そして、その岩の下敷きとなって破壊されたクルマ。瓦礫のなかを、立ち働く人びとの姿。

そうしたなかで、クルマのなかの父親と息子の会話が活かされ、外から入ってくる情報が活かされる。日常に起こる大きな波紋。地震がもたらすものどもが、こうしてとらえられてゆく。渋滞を避けるために、脇道に入ることで、日常性と突然そこに持ち込まれた大きな違和=地震のあとの光景が、見事にとらえられ、表出される。「道はどこかにつながっているもの」と話す父親に対して、息子は「行き止まりだったら?」と問う。そして、コケルは全滅らしいという情報も入る。

その途上、やはり『友だちのうちはどこ?』に出演してくれた老人ルヒさんに再会する。「人は年寄りになって初めて、若さがわかる。死んで初めて、生きているありがたさがわかる。死者が生きかえったら、人生をたいせつに生きるようになるだろう」と、ルヒさんは語る。一方、罹災して、テント生活を強いられている人たちも存在する。死は突然にやってくる。身近なところに死があり、皆、身内の誰かがこの地震で死んでいる。生きていると、誰だって成長する。男は、罹災者たちから地震が起こったときの状況を、聞き出そうとする。

このような状況のなかでさえも、たとえばルヒさんは、『友だちのうちはどこ?』の製作のエピソードを語ったりする。映画のなかの“家”と、自分が実際に暮らしている“家”が違うことを。自分は実際よりも年寄りに見せられていたことを。そして、映画だって嘘ばかりじゃないことも。

さらに他方では、テント生活を強いられている罹災者が、テレビのアンテナを立てて、テレビで、ワールド・カップのサッカーを観戦しようとする。

「皆、死んでしまった」と、地震のあとの現実を語りながら、この『そして人生はつづく』では、生き残った者たちの、力強い生への意欲を、描いてもいる。ここには、その被った悲惨に、嘆き哀しむばかりではない、人びとの強さも描かれているのである。そうして、こうした人びとの姿は、この世界のどこででも見られる人びとの姿でもあるだろう。

もし、われわれの無知が、恐怖感をつくり出すのだとしたら、まずは親近感のもち得る何事かを見出すことからはじめられないか、とおもわれる。キアロスタミは、イラン・イスラム社会の日常を描き続ける。そして、その視座は、力強い何ものかを表出し続けている。この世界は、アメリカやアメリカ的なものどもだけで出来ているのではないのである。<神>は死んだと言われたキリスト教社会にはわからない何かが、<神>の名のもとに生きるイスラム教社会にはあるのかもしれない。

 
※:未完(今回で終了)

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